ある無罪事件(冤罪事件)を担当した検察官が、付審判決定を受けたことが報道されています。これにより、その検察官は、刑事手続きで審理・判決を受けることになります。

付審判決定というのは、検察官が起訴・不起訴を決める権限をほぼ独占している制度の例外の1つです(もう1つは検察審査会の議決による強制起訴)。

検察官同士や捜査機関同士では、犯罪があっても、「かばい合い」が生じて適切に起訴されないことが懸念されます。ですので、一定の犯罪については、裁判所が被害者などから請求を受けると「起訴・不起訴」に相当する判断をすることになっています。刑事訴訟法に規定されています。

今回は、取調べでの行為が特別公務員暴行陵虐罪にあたる疑いがあり、裁判にかけることが相当であると判断されました。

罪名のおどろおどろしさもさることながら、決定理由がまた踏み込んだものになりました。職権行使ではない不法なものであることは明らか、検察庁内部でも深刻な問題と受け止められていないこと自体がこの問題の根深さを物語っている、不起訴処分を容認すれば取調べ方法を許容することと大差ない、等々。

もちろん、推定無罪の原則は今回も働きます。

とはいえ、裁判所がここまで踏み込むというのは、問題の重大さを物語ります。

報道されている検察官の反応もまたひどく、「(取調べの中で)相手をカチンとさせてしまったら刑事被告人になりうる」(←誰も「カチン」だけを問題にしているわけではない)、「現場は必ず萎縮する」(←悪いことばかりではない)など。

決定も述べていますが、今回の取調べは任意性を担保するための録音録画のあった場面でのことです。つまり、検察庁は組織として、この程度では任意性が失われず、むしろ取調べの適法性が基礎づけられると考えたことを意味します。この世間の感覚との「ずれ」は深刻というほかありません。

たしかに、今回と同様の威圧的な取調べをして罪を「白状」する場合もあったのでしょう。それを大きな問題としてこなかったのは、これまでの裁判所でありこれまでの社会でもあります。「治安の維持」に「貢献」してきた部分もあったのかも知れません。(カギカッコ内は、皮肉を込めています。)

しかし、被疑者(罪人を含む)にも適正手続きの権利があります。捜査機関といえど(少なくとも外部では)無謬性の神話(絶対過ちを犯さないという信仰)はすでに崩壊しています。

つまり、検察庁の「感覚」は、一言でいうと「古い」のであり、許容される時代もあったのでしょうが、もはや時代に合わなくなったというほかありません。

このことを検察自身が自覚するのは、いつになるのでしょうか。また、自覚させるには、どのような改革が必要なのでしょうか。

裁判所も謝る時代に、検察庁だけ周回遅れです。

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松本 治
松本 治
「弁護士は、社会生活上の医師である。」この信念に基づき納得の解決を目指します。
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