今日(令和7年9月18日)の新聞報道には驚きました。
アメリカ合衆国で、こともあろうに裁判所において、「移民」に分類される方々が、令状もなしに拘束され続けているというのです。
裁判官が発布する令状がなければ、(現行犯などの例外を除いて)拘束されないというのは、日本では憲法33条に明記されています。これが、かつて「自由の国」と呼ばれたアメリカ合衆国の現在の姿かと思うと、愕然としました。
では、日本では将来的にも同じことが起こる危険性はないのでしょうか。
残念ながら、私はそうは思えません。
その証拠に、一部では「外国人」どころか帰化した「日本人」に対する差別すら公然と行われており、まともな人権規定のない「憲法」と称する文章を日本国憲法と入れ替えようと主張する政党が、国権の最高機関たる国会で無視できない議席数を得ているという現状が厳然としてあります。
そもそも、憲法の本質は、誰が政権を取っても、人権を侵害する暴走をさせないという歯止めとなることにあります。人権を多数決から守るということです。ただこれも、憲法があれば安心というものでもありません。憲法を運用・実現するのは、あくまで「人」なのです。日本国憲法も12条に「不断の努力」の必要性を明定しています。
ここで、「日本人」のための「日本」を実現することが悪いのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかと思います。
確認したいのは、そもそもの「日本人」の定義と、現実問題として「外国人」なしに日本「社会」が回っていくとお考えか、ということです。
まず、「日本人」の定義ですが、これが帰化人などを排除した、(定義のふわっとした)いわゆる「純ジャパ」を指すことになると、大きな問題であると考えます。純血主義の性質上、だんだんと減っていき、ルーツ(それも遠いところを含めて)、言語能力、名前(カタカナ表記か「外国っぽい」か)、はては見た目へと基準が変化していくことは目に見えています。
また、現実問題としても、「外国人」の参加なしに日本社会は回らないという現状もありますし、国籍を前提としない範囲の「人権」は人種等を問わず与えられるというのが憲法の発想とされています。
最後に、ニーメラーの警句を引用しておきたいと思います。要するに、排除の論理は、いつか必ず「貴方」を排除することになります。安全な場所にいる人など論理的に存在しません。
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」
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